昭和五十六年一月三日 朝の御理解
御理解 第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。 無信者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
無信者ほど神はかわいいと仰せられる。ここでのかわいいというのは、神は悲しい神は苦しいと頂くべきだと思うですね。
例えば信心をさせて頂いておっても、まあ、皆申しますように自分こそくずの子だといったようなふうに申しますけれども、自分で自分がくずの子だと気付かせて頂けば、そこからこれではならんというものが必ず生まれてくるでしょう。
自分のような親不幸者はないと悟った時に、これではならんという心がおきてくるでしょう。ですからそういう意味でのくずの子ではなくて、ここで私は、頂かなければならんのは信心を頂いていないすべての人間氏子をさしておられると思うんです。 してみると、神様の心をやすんじまつらねばならない、いうならば責任をも感じなければならないのがお道の信心信奉者だと思いますね。
そりゃまあ、それこそ大変な事である。合楽で和賀心時代を世界にというておるように、おるようなものです。とても限りがない。けれどもやはりどうでも、和賀心時代を世界津々浦々にまで広げさせて頂く願いと、その大きな願いをもって私共は信心させて頂かなければならない。
只、唱え言葉に終わったのでは出来ない。そこでやはり、神様を昨日の御理解じゃないですけれども、神様に安心してもらえる喜んで頂けるというか、そういう信心を身につけねばならない。そういう信心を身につけるという事はどういう事かと言うと結局、神と一体になり、いうならば、神の手にも足にもなるという事でしょうけれども、私は今朝から有難いお夢を頂いたんですけれども、私の枕元に八人の方達が正座しておる。そして両手を畳の上について、時間でございますと八人が口を揃えて言われるんです。それから、はあっと目が覚めたんですけれども、丁度時計が三時前五分でした。どういう事だろう八人の人達が私に時間でございます。起こされた。
私は今日、はじめてその辺のところが少しわかったような気がするんですけれども甘木の初代が神様は人間つかい。私は人形だと。あやつり人形だとおっしゃったという話を聞いた事がございます。
天地の親神様が人形つかいで、私は人形あやつり人形だと。これはこのたとえ話はいつも皆さんに聞いて頂くように、神様の仰せどおりに、神様が右向けとおっしゃるならハイ、左むけとおっしゃらハイと、まあ素直に神様の思し召しのままに動かして頂くという事だという意味に、皆さんにも聞いて頂いたし又、私もそ思うておった。 ところが今日、私、そのお知らせを頂いてから感ずる事は神様がね、私の心の中にずっこん入りこんでしまってござる。平尾教会の吉野という先生、初代の先生ね、大変な学者でもあるし偉い先生でした。が、私があちらにおひきよせ頂いた時に私は必ず金光様が、四時のおでましを自分の教会の庭で向かってさせてもらいますと、だから、四時前には必ず起きて金光様のお出ましをお庭でお迎えなさる。そしてその時にどうぞ金光様、今日一日私の心の中にお入り下さい、お入り下さいと願うという意味の事を私は聞いた事がございますね。そしていわゆる、金光様のお手替わりとしてのお結界を勤めるという事なのでしょう。そん時にはそう、素晴らしい事だなあとは思わなかったんですけれども、今日私、そんなお夢を頂いてね、改めていうならば、甘木の初代があやつり人形と神様が人形つかいというておられるその意味というものがです、只、神様まかせにハイハイと言うて、右向けとおっしゃった時だけ右向く、左向けとおっしゃった時だけ左向きさえすりゃよいと言うのではなくて、もう甘木の初代の中に、神様が入りこんでしもうておられた。だから、神様がいうなら、全身全霊を動かしておられる指図をしておられる。
いうならば、甘木の親先生が思われた事はもうそのまま天地金乃神様の思われる事だという事なんです。
大坪総一郎の動きそのものが天地の親神様の動きであり、大坪総一郎が思うた事、その事がもう天地金乃神様の思いである。又、願ったり、願いであるというようなふうに感ずるんです。そこで私の心の中に大坪総一郎があってはならない。
いわゆる無私(むし)、私は無いという。私は無いという事をまあ、いろいろな意味で申しますと限りがありません。私の場合は、こういう時には私が、私というものがあったらこんな事は出来んだろうといったような事が沢山あるんです。
そういう思うてくると成程、天地金乃神様が私の心ん中に入りこんでしまって、そして天地の親神様が、右に行こう、左に行こうと思いよんなさるなあという事でございます。そして、ああもしたいなあと思いよんなさるとであります。
私は今日、只、いつも起して頂く時間に起こして頂いたという事がどういう事であろうかと、あの宅の御神前でその事を思わせて頂きましたらね、「どうしたと言うわけじゃない」これは皆さんも理屈の上じゃわかっておられるけれども、天地金乃神様のいつも御守護を受けておるという事なんですけれども、いつもかつもがねえ、お前を守護しておるという守り続けておるというか、又はお前の心の中に入りこんでしまっておるのだと、だから、いうならいつも御守護を受けておる実感があればよいのだ どういうわけじゃない。時間だから起こしたと、勿論そうでしょうけれども、どういうわけに起こしなさったですかというわけではない。金光様の信心をしていよいよ頂かしてもらう、わからしてもらう事は、天地金乃神様の御守護を受け続けなければここ一寸が動けないという事なんです。
だから言う事はやすいし又、そうだろうと思う事も容易いです話を聞けば、けれども実感としてこれを四六時中頂き続ける事が信心なんです。ところが私共の神様が入りこみなさる余地のないような自分の心の状態であったり、破れであったりしますから、入ちゃ神様が洩れてしまいなさる。あんまり汚れとるけん神様が汚うしてよりつきなさらんといったような事にまでなりかねないのです。
だから神様と私共がこう、離れて何か頼む時だけ神様というて、寄ってこんならんといったような感じなんですけれども、甘木の初代が言われたという、いうならば、神様がいつでも、右向け左向けをおっしゃるそのままの事がでけなさるという事は、もう甘木の初代の心の中に神様が入ってしもうておられたんだと。
吉野先生ではないですけれども、私の心の中に金光様今日一日入って下さい、お働き下さいと言わんでも、もう神様の方がちゃんと安武松太郎の心の中には入ってしまうてござる。だから安武松太郎の言う事は、もう神様の言われる事であり、安武松太郎の動きそのものは、もう天地の親神様の働きなのだ。だから甘木の方達がやはり生神様として拝んだわけがわかるような気が致します。
ここでもね、私は今日はそれを実感致します。私が思いよるとじゃないなあと、そりゃ時々は思いよりましたけどね。けど今日はいよいよそれを思います。それでいよいよこんなかには入ってくださる。
天地金乃神様が入りこんでしまって下さって、いよいよ大きな私が合楽示現活動に参画するといったような運動を私がおこすのではなくて、天地金乃神様がおこしておられるんだという事になるのです。そうして今日八人の方がおこして下さった「時間ですよ」というて起こして下さったと言う事がです、今申しましたような事を連想するんです。
ははあ、神様が起こしておられるんだという事。八という事は,まあ八つ波の光が世界の津々浦々にこう広がっていかなきゃならんと言う八つにつながるというような気がするんです。合楽示現活動を和賀心時代を世界の津々浦々にという願いがそのまま、八つの光になっていわゆるおこされておる。そういう運動を天地金乃神様が私を芯にしておこしておられるんだと、私がそういう事を言い出したとか、そういう運動をおこしたいというんではない。神様がおこされているんだという事をまあ、これはその今日頂いたそのお知らせと言うよりも頂いたその事から、御祈念中に感じた事です。おこされておるとです。そして今日の御理解を改めてくずの子程かわいいと仰せられる。かわいいと言われるのは神様の悲しみであり、苦しみである。ねえ、そりゃそうでしょうね。自分の子ん中にくずの子が居れば親の苦しみでしょうもんやっぱり 親の苦しみでしょう、だからそういう人がどの位世界中にそれでもう、満ちておるという事です。金光様の信心をしとるけんでくずの子じゃないかというとそうじゃない。金光様の信心しとっても只、御利益欲しさの信心ばっかりといったような信心でいうならば神様が入りこんで下さる人を神様は求めたまうのです。
神様がその中に入りこんでしまいなさるような人を求めたまう、そしてあちらこちらに神様が今日皆さんに聞いて頂く。いやいつも聞いて頂いておるように合楽示現活動に参画するといったような和賀心時代を世界にはいったような運動を神様がおこしてくださる元にもなる人材を神人を求めたまうと、堀尾先生が言われたというお言葉ですけれども、そういう人を求めたまうのだという。
いうならばくずの子からいうなら、一歩神様の御寵愛が受けられる神様がこの氏子だけは安心してくだされる氏子を求め願っておられるのであります。どうぞ信心しておかげを受けてくれよというのは、そういうおかげの事ではないでしょうか。
右向けと言えば右、左向けハイ、神様まかせになりますという事が私は、甘木の初代が言われた私はあやつり人形で、神様が親神様とおっしゃったのは、只、神様まかせになっておりさえすればよいという事だけではなくて、もう四六時中が神様が思い神様が動きなさる。動きが思いが私の心の中にあるというようなおかげを頂くという事だというふうに今日は思わせてもらいました。
まあ今から、今からと言うが大変ないうならば、大事業をおこされたもんだなあと思います。だから、これがそれこそ、千年万年かかってでも、この運動が基軸となってです、和賀心時代を合楽示現活動に参画する人達がねえ、出来続けていかなければならないという事であります。それを私共がわからしてもろうて、はじめて、なら神の手にも足にもならせて下さいという願いになってこなければ、只、いうならば何んと言うでしょうかね、指先だけの、口先だけの神様の手になり足になりでは、芯から根からこの中に神様が入って頂いて、私が思う事、即、神様が思いござるのだなあと言うような信心をね、まあ頂きたいとそういう願いの基に信心を進めていかなきゃならない。いうならば大きな信心というたら、これより大きな信心という事になるでしょうね。神様と一体、神様とのいうならば神様が心の中に入りこんでしまって下さってある、そういう手立てがね合楽では説かれておるように思います。
どうぞ。